仕事に「やりがい」は必要?やりがいを感じられない自分との向き合い方
[最終更新日]2024/10/25
「仕事をしていく上で、やりがいは必要なものか」 ─── 皆さんは、どう考えますか。
「やりがいを感じられる仕事です」といったフレーズは、ビジネスをテーマにしたドラマや小説、はたまた求人情報で見かけることも多いことでしょう。
ひと昔前まで、仕事にやりがいを持って取り組むのは当たり前のことのように思われていました。
ところが、近年になって「やりがいという言葉はどこか胡散臭くないか?」「やりがいは人から押し付けられるものではない」といった意見を持つ人が増えてきています。
目次
1) そもそも「やりがい」とは何なのか?
「やりがい」という言葉がマイナスイメージを持ちつつある
高度経済成長期に代表されるように、かつて「個人の努力」「会社の成長」「世の中の発展」がそれぞれ矛盾することなく合致していた時代には、仕事に「やりがい」を感じて働くのが理想とされていました。
しかし、国内経済が必ずしも上向きでなくなってきたことに加え、価値観の多様化が進んだことによって、仕事の「やりがい」という言葉は大きく様変わりし始めています。
たとえば今、「やりがいを感じられる仕事」と求人に書かれていたとしたら、「労働に見合った対価を十分に払ってもらえず、やりがいを理由に時間や労働力を搾取されるのでは?」と警戒する人も多いのではないでしょうか。
このように、近年では「やりがい搾取」といった言葉が聞かれるようになるなど、やりがいの言葉そのものがネガティブな響きを帯び始めています。
もともとはポジティブな意味で使われてきた「やりがい」がネガティブワードに変わりつつある背景には、どのような理由があるのでしょうか。
「やりがい」を押し付けられることに違和感を持つ人が増えている
「やりがい」がネガティブな言葉としてとらえられるようになりつつある背景の1つに、やりがいを押し付けられることに違和感を覚える人が多くなったことが挙げられます。
やりがいを「押し付けられている」と感じる人が増えた理由として、次の3つが考えられます。
1. ワークライフバランスに対する意識の高まり
仕事だけに没頭する暮らし方が長期的に見てQOL(クオリティ・オブ・ライフ)を低下させることを、若い世代はよく知っています。
短期的に稼げたり、昇進できたりしても、結果的に病気に罹ったり、仕事以外の娯楽や趣味にあてる時間が全くなかったりするような生き方はしたくないと考える人が増えているのです。
仕事にのめり込み、会社が成長することで世の中も連動して豊かになっていくことが実感できた時代と比べると、仕事と世の中、個人と仕事が切り離され、個人としての人生をより豊かで潤いのあるものにしたいと考える人が多くなっていると見ることもできるでしょう。
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2. ブラック企業問題などの社会的背景
低賃金・長時間労働・残業代未払いなど、従業員が仕事のために差し出した労働力や時間に対して、企業が必ずしも誠実に応じているわけではないことが分かってきました。
これにより、「やりがい」という言葉を隠れ蓑に、不当に労働力や時間をむしり取っているのではないか?といった警戒感が広がっているのです。
「やりがい搾取」という言葉に表れているように、最近では「やりがい」をアピールする企業は「やりがい以外の対価をしっかりと払っていないのではないか」という疑いの目を向けられることさえあります。
それほど、やりがいという言葉のイメージが悪くなりつつあると言えます。
3. 世代によって異なる価値観
厚生労働省の調査によれば、40代後半以降の年代では「生きがい」を見つけるために仕事をする人が多いのに対し、若い世代では「お金を得るため」が働く目的として最も多いという結果になっています。
20代の若い世代では「自分にとって楽しい仕事」が理想的な仕事と答える人の割合も多くなっていますが、これは「仕事のやりがい」とは微妙にニュアンスが異なります。
このように、かつて言われていた「仕事のやりがい」は若い世代にフィットしなくなりつつあることが分かります。
「やりがい」という言葉に対する反応には、すでにジェネレーションギャップがあると言えるでしょう。
2)仕事に「やりがい」は必要なのか?
どうして「やりがい」は持つべきものだとされてきたのか
やりがいは仕事の満足度を決める要素の1つだった
人は自分が携わっている仕事に対して満足度が高いと、自然と一生懸命に取り組めて、その結果として成果を残せるようになります。
逆に、目の前の仕事に対する満足度が低ければ、仕事の生産性を高めることは難しく、成果をあげることも困難になってしまうのです。
仕事に対する満足度は、報酬や職場の人間関係、仕事に対するやりがいなどによって左右されると言われてきました。
企業としては従業員に生産性を高め、成果をあげてもらいたいため、仕事に対する満足度を高めようとします。昇給や福利厚生は、こうした理由から制度として設けられてきたものが多いと言えます。
曖昧で主観的な「やりがい」
仕事に対する報酬や職場の人間関係は、「高い」「安い」あるいは「良い」「悪い」といったことが指標として比較的分かりやすいと言えます。
ところが、「やりがい」に関しては労使間で解釈に開きがあるケースが少なくありません。
経営者や上長にとっては「たとえ報酬が高くなくても、貴重な経験ができる絶好の機会だ」と思って仕事を任せていたとしても、働く側からすれば「タダ同然で働かされて納得いかない」と感じることもあるでしょう。
このように、「やりがい」を肯定的な意味でとらえ、働く上で必要なものとしてとらえてきたのは、むしろ雇用する側にとって都合の良い理屈だったところがあると言えます。
生産性を高め、成果をあげてもらうためにも、従業員に「やりがい」を感じてもらう必要がある、とされてきたと考えられるのです。
しかし、「やりがい」がなくても仕事はできる
やりがいを持たせたほうが生産性を高めやすい、というのは雇用者側の理屈です。
では、雇われる側からすると、「やりがい」は必須のものと言えるでしょうか。
実は、働く側からすると「やりがい」はどうしても必要なものとは言えません。
その典型例が「残業代未払い」でしょう。
残業代を一定額以上(悪質な場合は一切)支払わない企業であっても、従業員は与えられた業務を全うしなくては「無責任だ」と言われてしまいます。
そこで、いわゆるサービス残業によって対価を得ることなく働き続けることになります。
このとき、従業員は長時間拘束されていますが、拘束時間が長いことと「やりがい」は何ら関係ありません。
長時間拘束されるという「苦痛」に耐えたほうが「やりがい」も感じやすいと錯覚してしまう人がいますが、苦痛とやりがいはもともと無関係なものです。
むしろ、従業員にとってはその間の残業代が適切に払われたときのほうが、よほど「頑張ってよかった」と思えることでしょう。
このように、従業員に半ば強制的に課される「やりがい」は、場合によっては従業員にとって迷惑ですらあるのです。
「やりがい」を押し付けるのはやめてほしい、と感じる人が増えているのは、やりがいという言葉の陰でこうした「迷惑」を被る人が存在するからなのです。
経営者から見ると「やりがい」は必要だが、労働者にとって必ずしも必要ではない
仕事の「やりがい」は、さまざまな表現に言いかえられて従業員に無理な働き方を強いていることがあります。
たとえば「チームの目標達成のために」「お客様の満足度向上のために」「会社の理念を貫徹するために」といったものです。
しかし、注意深く聞いていると、これらは従業員個人にとってのやりがいに通じるというよりは、組織的に生産性を高めるための建前であることが分かるはずです。
若い世代の中には、お金が第一の目的ではなく、自分にとって楽しいと思える仕事をしたい、と考える層がいます。
自分にとって楽しい仕事と、会社で働く上での「やりがい」が合致すれば最高なのですが、「やりがいがある」と思わされてしまい、都合よく時間と労働力を使われてしまわないように注意する必要があります。
- この仕事は汎用性に欠け、特定の組織の中でしか通用しないものではないか?
- 今後のキャリアに生きるスキルや経験につながる仕事か?
- 転職したとしても持ち運びできる「ポータブルスキル」を得られる仕事か?
といった具体的なビジョンを持ち、「やりがい」という曖昧な言葉に絡め取られてしまわないように気をつけましょう。
3)「やりがい」と上手く付き合うにはどうすればいいのか?
私たちが「やりがい」という概念と上手く付き合っていくには、どうすればよいのでしょうか。
ひとつ言えることは、やりがいはその人の「こうありたい、こうしたい」という想いがその人自身の行動によって実現したときの、「結果」としてついてくるものです。
つまり、想いとそして行動なしにやりがいが自然発生することはありません。
そのうえで、以下の4点について気をつけておくことで、その人にあった本当のやりがいというものが、見つけやすくなると思います。
やりがいが押し付けられていないか?
仕事の「やりがい」がなぜこれほど警戒される対象になってしまったか?を考えるとき、その「やりがい」が単なる押し付けになっていることが理由の1つとして想定されます。
やりがいとは本来、働く人自身が自分で発見し実感していくべきものであって、「やりがいを感じなさい」と命令されるものでもなければ、「私たちがやりがいを用意してあげます」と押し付けられるべきものでもないはずなのです。
やりがいは自分から気づくことで初めて意味を持つ
現在のパナソニック社の前身である松下電器では、ある社員が毎日ずっと電球を磨くだけの単純作業を任されていました。
その社員自身は「つまらない仕事だ」と感じていたようですが、あるとき創業者の松下幸之助氏から「それらの電球がいかに多くの暮らしを明るく照らしてくれているか」を説かれ、自分の仕事が世の中の役に立っていることを実感したそうです。
このことを機に、今までと同じ単純作業であっても「やりがい」を感じられるようになった、というエピソードがあります。
自分の仕事にやるべき理由を見出せているか、納得して仕事に取り組めているか、という点は、仕事に自らやりがいを見出せるか否かに大きく影響します。
こうしたやりがいは、他人から「やりがいを感じなさい」と押し付けられても実感することはできません。
主体的に動いて自ら課題を発見したり、自分の仕事が及ぼす影響の大きさを実感したりする中で、初めて自分にとっての「やりがい」を発見できるものなのでしょう。
「やりがいはいらない」と感じていても“つまらない仕事”はストレスになる
やりがいなど感じていなくても、報酬が得られればそれがモチベーションになる、という人もいるかもしれません。
たしかに、仕事に対するモチベーションを考えるとき、必ずしも「やりがい」が最重要項目になっている必要はありません。
では、やりがいを全く感じられず、つまらないとしか思えない仕事を続けることはストレスにならないのでしょうか。
多かれ少なかれ、人は仕事をすることを通して他者から必要とされている感覚を持ちたいと思っています。
「自分の仕事は誰がやっても同じ」「この仕事をやってもやらなくても変わらない」という気持ちで仕事を続けていくのは不健康ですし、モチベーションを維持するのが非常に難しいはずです。
「やらされている仕事」からは、やりがいはまず生まれません。
一見すると誰がやっても変わらないような仕事だったとしても、自分なりの工夫を加えたり、より良くするための仮説を立て検証を繰り返したりすることで、仕事を自分のものにしていけるようになります。
義務感だけでやらされている仕事のしかたから脱却することも、仕事のストレスを減らす工夫の1つと言えます。
「やりがい」と上手く付き合うにはバランスを模索することがポイント
「やりがい搾取」のような状況が生まれた背景には、仕事のやりがいに対する期待が大きすぎたことが理由として挙げられます。
やりがいさえあれば誰もが喜んで仕事をするわけではなく、働く側が仕事に求めるものは時代とともに変化し、多様化していたというわけです。
では、仕事にやりがいを求めること自体が完全に間違っているかというと、そうとも言い切れません。
やりがいがなく、「お金のためだけ」「仕事は仕事と割り切っている」という姿勢に徹して仕事をしていると、いつまで経っても仕事に面白みが感じられず、やらされている仕事という意識が抜けないでしょう。
仕事と割り切って諦めていた仕事がつまらないために、かえってストレスを溜めてしまうようでは本末転倒です。
自分にとって心地よい「やりがい」とはどのレベルなのか、試行錯誤を繰り返しながら摸索していくことが大切です。
そうすることで、やりがいとの上手な付き合い方が見つかり、無理をせず成果をあげやすくなったり、仕事で過度なストレスを感じにくくなったりする効果が期待できるでしょう。
まとめ)仕事のやりがいは「自分で見つける」からこそ価値がある!
仕事のやりがいとは「押し付けられれば害になりかねないものの、やりがいが全くないとかえってストレスになる」という性質のものである、と述べてきました。
見方を変えれば、はじめから誰にでも当てはまる「やりがい」が用意されている仕事はありません。
どの仕事をするにしても、やりがいは自分で見つける必要があるのです。
仕事のやりがいとは人から与えられるものではなく、自分で見つけるからこそ価値があるものなのかもしれません。