『仕事のワクワクを探す旅』インタビュー#013

三代祐子さん|外資企業、日本企業、非営利組織、フリーランス。多彩なキャリアが導いた「私らしい生き方」

三代祐子さん
 

「誰もが、『ずっとこのまま頑張り続けるのはつらい』と、感じているのではないでしょうか?」

子ども時代を過ごしたニューヨークでは「アジア人」であることを常に意識させられ、大学時代を過ごした日本では、今度は「帰国子女」として浮いてしまった。さらに新卒で入ったマッキンゼーでは「理想だけでは社会は変えられない」と葛藤する──。

いつも「どこにも完全には属せない」感覚を抱えながらも、「私は何をしたいのか、何ができるのか」を模索し続けてきた三代祐子さん。
さまざまな文化、さまざまな世界を行き来して辿りついたのは、「自分が本当にやりたいと思えることを、人とのつながりの中で実現していく生き方」でした。

自分らしい生き方を探し続けているすべての人に届けたい、祐子さんのストーリーです。

目次

Profile

三代 祐子

MY BiRTH DESiGN / フリーランス
住所:東京都
Web/SNS:MY BiRTH DESiGN  

経歴

幼少期〜中学 アメリカ(ニューヨーク州)で生活。英語が喋れず苦労、アイデンティティの模索。
高校 慶應義塾ニューヨーク学院(寮生活)。自分らしく過ごせる環境、サッカーに打ち込む。
大学 慶應義塾大学 法学部 法律学科。日本の社会や文化への適応に苦労、児童養護施設ボランティア経験。
卒業後 マッキンゼー・アンド・カンパニー勤務。
マッキンゼー退職後 東ティモール 世界銀行 教育プロジェクト参加。国連UNICEFへの関心から現地に行き、地元の視点での開発を学ぶ。
大学院進学前 内閣府の世界青年の船事業に参画。大学院準備期間の間に経験を積む。
大学院 London School of Economics(LSE)MSc Social Policy & Planning. 社会政策、児童人権を学ぶ。
20代後半から30代前半 ベネッセコーポレーション勤務。高校生向け進研ゼミ、大学事業部などで事業戦略、新規事業開発を担当。
30代半ばから現在 出産を機にフリーランスとして独立。社会起業家・非営利団体支援を中心に活動。3児の母。

1)「私はどこに属するのか?」──アメリカと日本で揺れたアイデンティティ

子ども時代──差別・カルチャーショック、そしてサッカーとの出会い

──高校卒業までアメリカで過ごされたそうですね。どのあたりに住んでいらっしゃったんですか?

ニューヨーク州に住んでいました。私が暮らしていたのは、のどかな住宅街でとても落ち着いた場所です。
ニューヨーク州というとマンハッタンのイメージが強いと思いますが、実は車で1時間も離れると、もう自然が広がるようなのんびりした地域なんですよ。

ニューヨーク Scarsdale

──幼少期の経歴で印象的だったのが、「英語が苦手だった」ということですが、当時はどんなご状況だったんですか?

小学校1年の頃に、学校のイベントか何かで、みんなで『ウィ・アー・ザ・ワールド』を歌う機会がありました。
私はまだアメリカに来たばかりで英語も話せず、当然歌詞も覚えられない。それで歌えるようになるまで、毎日居残り練習をさせられたんです。「歌えないんなら、居残りするのは当たり前よね?」という感じで笑。その「当然さ」というか、配慮とか一切なく「できないなら、できるまで練習しようね」と。

あとは歴史でパールハーバーの話が出た際に「Yukoは日本人としてどう思う?」とクラスの全員の前で意見を求められて、そのような接し方が、もしかしたら私にとっての最初のカルチャーショックだったのかもしれません。──アメリカでの生活のはじまりは、そんな感じでした。

──当時を振り返ってみて、どんな子どもでしたか?

子どもながらに「自分を守らなきゃ」という気持ちが強かったですね。積極的に自己主張をするタイプではありませんでしたが、「自分のアイデンティティをどう確立すればいいんだろう」といつも考えていたように思います。

見知らぬ子から「チーナ(中国人)」と言われて、目を細めるジェスチャーでからかわれることもありました。彼らにとっては、日本人と中国人の違いなんてよく分からなかったのでしょうね。

学校では自然にグループができていて、たとえば「金髪で運動が得意で社交的な人気者グループ」や、「ちょっと流行に敏感な子たちのグループ」など。私はというと、普段はそういうグループとはほとんど交流せず、同じようにインターナショナルなバックグラウンドを持つインド人やイタリア人の子たちと一緒に過ごしていました。

ただ、そんなグループの垣根が取り払われる瞬間もあった。その一つが「部活」でした。私は体は小さかったけれど、スピードとスタミナには自信があったので、サッカー部に所属していました。

部活では人気者グループの子たちもたくさんいたんですが、その時は皆が私を「Asian(アジア人)」ではなく、「Yuko」という個人として認めてもらえている感覚があったんです。だから、サッカーや走ることだけは誰にも負けないよう、一生懸命頑張って居場所を作ろうとしていた気がします。

──サッカー部で、とても充実した生活を送られていたんですね。

そうですね。高校からは寮生活も始まって、学校も目の前でしたので、毎日が勉強と部活に全力になれる環境になりました。
みんなで一緒にサッカーして、その後、勝っても負けても仲間と一緒にご飯を食べながら、今日一日のことを一緒に振り返って、もっと強くなるにはどうしたらいいかを話し合ったり。

家族がそばにいるわけでもなく、何もかもが自分次第。そして、大好きなサッカーに100%打ち込めて、毎日ヘトヘトになりながら食堂に向かって──、まさに「青春」でした笑。

──部活動以外では、どんな思い出がありますか?

夏休みに毎年参加していた「サマーキャンプ」が印象深いですね。小学校・中学校の頃はキャンパーとして1ヶ月ほど山で友達と過ごしていました。
その後、高校生になるとリーダーの役割を任されるようになり、夏休みの約2ヶ月半から3ヶ月間、ずっと山の中で子どもたちをまとめていました。

振り返ってみると、人生の中でも一番自分らしくいられて、楽しかった時期だったかもしれません。

サマーキャンプ風景

──キャンプのどんなところが楽しかったんですか?

キャンプは、家でも学校でもない、全く別の「第三の場所」でした。
自分と同じようにアメリカに住む日本人が集まり、そこでは成績や生い立ちなどの社会的な評価は一切ありません。そして、仲間と生活を共にする中で、自然にお互いの「本当の個性や良さ」が見えてきます。

たとえば、「普段はすごくのんびりしているけど、実はとても優しい子だな」とか、一緒に暮らしているからこそ、普段見えない一面に気づけるんです。
そうやって、人が自然体でいられる環境が本当に楽しかった。みんなで遊んで、食べて、寝て──。きっと、この頃から「人」に深く関わる仕事に興味を持つようになったんだと思います。

日本では、むしろ目立たないほうが過ごしやすい

──その後、帰国して慶應義塾大学に通われていますが、日本の生活はいかがでしたか?

はじめの頃は「あれ、この人ちょっと違うな」と感じられてしまうこともたくさんありました。

アメリカでは授業中に積極的に手を挙げて質問するのが普通だったので、日本でも同じようにしていたのですが、周囲からはかなり変な目で見られました。
男友達と映画や食事に行ったら、他の友達から「相手に変な期待をさせてはいけない」と怒られたこともありました笑。アメリカでは男女の区別なく友達と遊んでいたので、今では文化の違いだと理解できますけど。

東京

──日本でもご自身のアイデンティティについて迷われた時期があったのですね。どのようにして環境に慣れていったのでしょうか。

はっきりした転機は思い出せませんが、日本では街を歩いていても誰も私を特別視しないことにホッとしたのを覚えています。アメリカにいた頃は、自分がアジア人だというだけで気を張っていました。

また、安全で自由なのも良かったです。アメリカでは外出する時、親に車で送り迎えしてもらうのが普通でしたが、日本では大抵の場所ならひとりで自由に移動できますよね。

アメリカにいた頃は常に「自分の立ち位置を確立すること」への緊張感がありました。でも日本では、むしろ目立たないほうが過ごしやすくて、特別に頑張る必要もなかった。そのおかげで、日本の「暮らしやすさ」をしばしば実感できました。

2)「理想だけでは動かない現実」──東ティモールで学んだこと

「社会の仕組み」を、もっと学びたい

ニューヨーク

──大学卒業後、「マッキンゼー」を選んだ理由を教えていただけますか?

大学時代、児童養護施設でボランティアをしていました。そこで目の当たりにしたのが、現場の職員の方々がどれほど一生懸命に頑張っても、なかなか報われない現実でした。
あとは、服を着替えさせる時に子どもの身体にタバコの跡を見つけたり、段ボールに入れられて捨てられた兄弟など、何度も子どもの痛々しい状況に遭遇しました。

大学では法律学科に在籍していて、児童虐待の問題についても関心を持って研究していました。その他にも「オレンジリボン運動」の虐待防止パレードに参加するなど、さまざまな活動を通じて、児童虐待や養護施設を取り巻く問題に強い憤りや悲しみを感じるようになっていって──。

しかし、こうした問題は家庭や現場だけでは解決できません。制度や仕組みそのものを変えていかなければ、本質的な解決にならないと感じ、「社会全体を良くするためにはどうしたらいいのか?」という疑問を抱くようになりました。

その中で私が考えたのが、「社会の仕組みやお金の流れを効率的に学べる場所」でした。児童養護施設では法律や制度の変更で突然助成金が削減されるなど、現場が理不尽な影響を受けることがあります。
現場の頑張りを無駄にしないためには、お金や制度を動かす人たちと共通の言語で対話できることが大事だと思い、そのために、「社会の仕組みを短期間で学べる場」としてマッキンゼーを選びました。

Tips1 マッキンゼー・アンド・カンパニー

マッキンゼー・アンド・カンパニー

参考:Global management consulting _ McKinsey & Company

1926年に設立された米国発祥の世界的な経営コンサルティング会社。戦略策定や組織改革、企業経営など幅広い分野で、政府や大企業を中心にコンサルティングを提供しており、ビジネス界において強い影響力とブランド力を持ちます。

──先ほど「憤り」という言葉を使われましたが、そうした感情が祐子さんの原動力になっていたように感じます。

そうかもしれません。マッキンゼーに新卒で入ったばかりの頃も、上司から「君は大変だね」と言われるほど笑、仕事に直接関係のないニュースにもいちいち胸を痛めていました。

例えば、アマゾンの森林破壊が急速に進んでいるというニュースを見ると、自分に直接関係なくても悲しくなったり怒ったりしてしまう。おそらく私は、そういう感情が人より強く感じやすいタイプなのだと思います。
一方で、そういう風に感情移入して落ち込む自分のことを「偽善者」と感じていて。何も行動していないのに、ただ悲しんだり憤ったりしているのが偽善的で嫌で、ずっと葛藤していました。

ただ、最近になってようやく、「いきなり大きなことはできないから、その時々で自分にできることを少しずつやっていけばいいんだ」と受け入れられるようになったと思います。

「完璧な理想を描く」よりも「一歩を踏み出す」ことの大切さ

──とても興味深い変化ですね。そう感じられるようになったきっかけについて、教えていただけますか?

マッキンゼーを退職後、私は独立直後の東ティモール(Tips2)で世界銀行(Tips3)の教育プロジェクトに参画しました。

このプロジェクトは、現地の人々と一緒に教育制度、教育法を作り上げていく取り組みです。
現地のコミュニティをいくつかのチームに分け、教師や牧師、主婦などさまざまな立場の方々の声を丁寧に聴きながら、「彼ら自身が本当に望んでいること、必要としていること」を引き出し、まとめるというものでした。

Tips 2 東ティモール

東ティモール

「東ティモール」は東南アジアのティモール島東部を占める共和国で、2002年にインドネシアから独立しました。首都はディリ、公用語はテトゥン語とポルトガル語。主に農業が経済の中心で、近年は石油・天然ガスの開発が進んでいます。
アジア最貧国の一つであり、インフラ整備や政治安定化が課題となっています。

面積:
約1万4,900平方キロメートル(首都4都県(東京、千葉、埼玉、神奈川)の合計面積とほぼ同じ大きさ)

人口:
約134万人(出典:東ティモール国勢調査(2022年))

民族:
メラネシア系とパプア系が大部分を占める。その他マレー系、中華系等、ポルトガル系を主体とする欧州系及びその混血等。

Tips3 世界銀行

世界銀行

参考:世界銀行「世界銀行について」

1944年に設立された国際金融機関で、途上国の経済発展と貧困削減を目的としています。
加盟国に対して融資や技術支援、開発援助を実施。特にインフラ整備や教育、保健分野を重視し、持続可能な成長と世界の安定に貢献しています。

現地での日々は、まさにカルチャーショックの連続でした。例えば、私たちが「義務教育を無償化にしたら良いのでは?」と提案した時のこと。現地の方々は、「無償ということは、『価値がない』ということと同じ意味だ。それよりも子どもを働かせた方がお金になる」と言うんです。

そもそも、教育制度を話し合う以前に、現地では出生率の把握すらままならず、予防接種の習慣もありません。さらには住民が住んでいる家の前に道すらない、という状況。
もう日本とは状況が全く違いすぎて、話し合いのたびに、「ええっ!そこから?」という驚きの連続でした笑。

つまり、土台となる部分がないまま仕組みだけを作っても意味がないんです。そしてその土台とは、そこに関わる人たちが共通して持つ「意識」にほかなりません。
その意識を無視して仕組みを作ったとしても、私たちがプロジェクトを終えて撤退すれば、またすぐに元に戻ってしまうでしょう。
環境を本当に変えるためには、そこにいる人々の意識の背景を聴き、共に話し合っていかなければいけないのです。

では、共に変化を起こすために私たちに何ができるのか。それはとても明確で、「同じ目線で話す」ということでした。

──「同じ目線で話す」というのは、つまりどういうことですか?

私には、現地の人たちからすると特別なバックグラウンドや権力は何もありませんでした。所属もはっきりしないし、国連のような権威もない。
ただ、現地の言葉を一生懸命覚えたり、現地の人たちと一緒に安いドーナツを食べたりして、完全に対等な関係でした。

だから現地の人たちにとって私は、「Yukoってよく分かんないけど、いつもいるよね」くらいの存在だったと思います。一方で、国連職員の人たちはオフィス、食べる場所も違えば生活スタイルも違う。
現地の人から見ると、彼らはとても権威のある人たちです。だから地元の人たちは国連職員の人たちに何かお願いされると表面上は、「イエス」とは言いますが、実際には頼まれた仕事をやらないこともあったのです。

最初は「なぜやらないのだろう?」と不思議だったのですが、よく見ていると、意図的にやっていないことが分かりました。
現地の人たちは、権威のある人たちに対して「あの人は好きじゃないから言うことを聞かない」「あの人たちの指示を聞く必要はない」と、静かに抵抗していました。

私はというと、いつも隣にいたので「じゃあ、Yukoのためならやろうかな」と協力してくれることが多かったんです。

言葉にすると当たり前のことなんですが、「人は権力や肩書きがあるというだけでは、本当の意味で動いてくれないんだ」ということを、ここで改めて強く実感しました。「結局、人ってそこじゃん!」みたいな笑。

──とても素晴らしい経験ですね。同時に、サッカーやサマーキャンプで充実した子ども時代を過ごされた、祐子さんらしいアプローチだったと思います。

ありがとうございます。
話を戻すと、「いきなり大きなことはできないから、その時々で自分にできることを少しずつやっていけばいい」というのは、「完璧な理想を描く」よりも「一歩を踏み出す」ことの大切さ。
自分自身が目指す未来に向かって前進するには、小さな一歩が、重要なんだと思います。
東ティモールでの活動での活動自体ボランティアから入り、何事を進めるのも一歩ずつで、そのことを深く学べました。

3)「取引」ではなく「循環」で働く──共感ベースのフリーランス仕事術

働き方の新しい選択肢──“対価”より“ご縁”でつながる働き方

三代祐子さん ミーティング風景

──現在はフリーランスとしてご活動されていますが、主な仕事内容について教えていただけますか?

現在は主に社会起業家や非営利団体のサポートを中心に活動しています。
特に、社会課題に真剣に取り組んでいる人たちの話を丁寧に聞き、その人たちが目指す社会や実現したい想いに共感して、一緒に取り組むことが多いですね。

その時々のニーズによって、やることは多岐に渡りますが、組織の戦略づくり、研修の企画と実施、調査、プロマネなどを担当したりしています。

──フリーランスとして働くようになってから、どんな心境の変化がありましたか?

色々な変化がありましたが、特に感じるのは「働き方に対する選択」の違いです。

企業に勤めていた時は、仕事の進め方のほとんどが「取引ベース」でした。「これをやったから、その対価としてお金をいただく」という感覚です。

それがフリーランスになってからは、自分の命・時間の使い方を選択していくので、心地よく一緒に仕事ができる相手や、自分と何かを一緒にやりたいと感じてくれる人たちと、「ご縁」でつながるような働き方に変化しました。
気がつけば10年以上、名刺やホームページを持たないまま、本当にご縁だけを頼りに仕事を続けています。

お金を中心に考えるのであれば、もっと働きやすい会社や恵まれた環境を選ぶ道もあったと思います。でも、ライフフェーズに合わせてあえてその安定を手放してフリーランスになった以上、「本当に好きな人や心から応援したい人たちと働く」という気持ちを大切にしたいですね。

もちろん、時間や体力には限界がありますので、不安になることもありますし、焦ることも正直あります。
しかし基本的には、「この人を応援したい」とか「活動に共感できるかどうか」といった根源的でシンプルな想いを優先したいなと。

三代祐子さん ミーティング風景

──具体的に、どんな仕事をしているときに満足感を得られているのですか?

私にとって一番ありがたいのは、「人が見える仕事」なんですよね。つまり、誰かと一緒に思いや情熱を共有して、共に取り組めるような仕事です。そういう仕事は本当に幸せを感じます。

逆に「苦しいな」と感じるのは、ただのピンポンみたいなやりとりになってしまう仕事です。
意味とか意義を考える余裕もなく、ひたすらメッセンジャーで返事を返しているような状態だと、「あれ、私は何のためにやってるんだっけ?」とか「これって私じゃなくてもいいよね?」みたいに感じてしまって苦笑。歯車のようになってしまうのはちょっとしんどいですね。

──とても共感します。「歯車にならない働き方」について、祐子さんはどのようにイメージしているのですか?

最近、「ガンディー3.0」というリトリート(※)に参加したのですが、そこでこんなお話を聴きました。

“There is enough for the need, but not for the greed.”
世界には、本当に必要なものはすべての人に行き渡るだけ十分にある。
しかし、一部の人の果てしない欲望を満たそうとすると足りなくなる

※リトリート:日常生活から離れて、静かな場所や自然の中で心身をリフレッシュさせる活動のこと

もちろん、「お金がすべてではない」と簡単に言ってしまうのは、きれいごとになってしまいます。誰もが、家賃や生活費などの最低限のお金は必要です。

でも、一方でお金が増えれば増えるほど幸せになれるかというと、必ずしもそうではありません。確かに、「これだけのお金があれば幸せ」という明確な目標がある人にとっては分かりやすいかもしれません。
でも多くの人は、──私自身も含めてですが、漠然とした将来への不安があるからこそ、「お金はもっとあった方がいい」と感じてしまう。「老後のため」「もし病気になったら…」など、まだ起きていない未来の不安に振り回されてしまう。

“There is enough for the need, but not for the greed.” すなわち、ひとりで抱え込むのではなく、お互いに分け合って、不足を補い合う
そういう生き方ができれば、誰もがもっと幸せに生きやすくなると思うのです。

Tips4 ガンディー3.0

ガンディー3.0のリトリート風景

ガンディー3.0(Gandhi 3.0 Retreat)」は、インドで開催されるリトリートです。世界中で様々な領域で活躍している方達が招待され、お互いの叡智とガンディーの教えである「愛と奉仕」を現代的に学びます。
一人ひとりがその時にできることに取り組み、お互いを尊重しあう中で、自分自身や社会をより良くしていくためのあり方を探求する場となっています。

ガンディー3.0のリトリートは、無料で参加できます。
もちろん運営にはお金がかかっていますが、そこは「このような活動を応援したく、お金を払える人はお金を払えばいいし、お金でない貢献も同じように価値がある」という考え方で、私はそこでボランティアという貢献方法を選んでいます。
ここではお金を出す人が偉いとか、上下関係は一切ありません。お金を出せる人、労働力を出せる人、別の形で貢献できる人。 お互いが持つ「でこぼこ・資源」を少しずつ埋め合って、循環していくイメージですね。

──「取引ベース」ではなく、「循環」ということですね。

そうですね。
資本主義の考え方では、お金を出す人や役に立つことを話す人が「上」と見なされがちです。でも本来は、それぞれが自分の持っている力や資源を持ち寄り、支え合う形こそが、もっと自然で健やかな関係だと思うのです。

何も言わずにそっと寄り添ってくれる人の存在が、とても大きな意味を持つこともあります。特に、セッションのような対話の場では、静かに耳を傾けている人が、誰よりも深く場を支えていることがあります。

リトリートを主催する「Service Space」というボランティア組織では、色々な面白い実験をしています。
例えば、コーヒースタンドで、あるお客さんが次の人のコーヒー代までを支払ってみる。そうしたら、その次に並んでいたお客さんもまた次の人の分を払って、それが70人も続いた。
みんなよくわからないまま善意が繋がっていったんです。そうして払いたくない、払えない人は払わなくて良いのです。

単純に考えれば、自分で払っているのと変わらないんですけど笑、そこにはある種の新たな繋がりが生まれている。そういう価値観や視点をもっと知っていくことで、私たちはもっと豊かになっていけるのではないでしょうか。

小さなストーリーが社会を動かす──“想い”が価値になる社会に向けて

三代祐子さんと仲間たち

──お話を伺っていると、幼少期から高校時代までアメリカで過ごしたことで「人」への興味や関心が自然に育まれ、日本に帰国してからは「社会の仕組み」へと視点が広がっていったように感じました。
その後、マッキンゼーでの経験や東ティモールでの活動を経て、再び「人」への関心が深まり、現在はフリーランスという立場で「人」と「社会」の両方にバランスよく関わられている印象を受けます。

目の前にあることに対して、とにかく、自分なりに頑張って走ってきただけかもしれませんけど笑。

でも、それは私だけでなく、頑張っているのは皆一緒ですよね。そして、心のどこかで「ずっとこのまま頑張り続けるのはつらいな」と感じているのではないでしょうか。
個人だけの話ではなく、社会全体としても同じで、このままの仕組みややり方では、いつしか疲れ切って行き詰まってしまうと思うんです。

誰もが、ある日状況が変わり、突然ひとり親になったり、事故に遭い体が不自由になるなどと、予期しない人生の変化に直面する可能性があります。
それなのに日本では、職業や状況によってとても大きな賃金格差があって、個人がいくら努力してもなかなか貧困から抜け出せない人がたくさんいます。

社会の仕組みや制度は良くしていく必要がありますが、それだけに頼っていても、厳しい現実がすぐに変わるかというと、あまり期待はできないかもしれません。
しかし一方で、私たちの幸せが、「完全に社会の仕組みや制度に依存している」かというと、そうではありませんよね。

人は本来、「誰かを助けたい」「支え合いたい」という気持ちを自然に持っているものです。
社会と個人のバランスを取りつつ、もっと一人ひとりができることや、小さな支え合いに目を向けることも大切だと感じています。

三代祐子さんと仲間たち

──最後に、「頑張っているけれど、なかなかうまくいかない」「何かが違う」と悩んでいる方々へ向けて、ぜひメッセージをいただけますでしょうか。

まさに私が、「頑張っても何かが違う」とずっと感じてきたタイプです笑。

大学でも、本当は教育学部など興味のある分野に行けばよかったのに、「苦手の克服のため」「これが社会では重要視されてそうだから」と自分に言い聞かせて法学部を選びました。マッキンゼーという会社を選んだのも、同じような理由ですね。

そんな経験をたくさんして、今ようやく「苦手の克服」から「関心あることを選ぶ」方向へ、自分自身をシフトしているところです。最初からやりたいことを見つけて真っすぐ進める人が羨ましいと思っていました。

ただ、矛盾しているように感じるかもしれませんが、私は「人のストーリーを聞くこと」も大好きです。本当にやりたいことかどうかに関係なく、強い想いを持って頑張っている姿に触れると、いつも想像もしなかった新しい世界が広がります。そして、自分自身の心も豊かになり、自然とその人を応援したくなるのです。

たとえ頑張って望んだ結果にならなくても、きっと誰かがその人の想いや行動に興味・関心を持ってくれます。そしてストーリーは伝わり、人々の思考や行動を少しずつ変えていく。これはお金には代えられない大切な価値であり、それもひとつの循環ですよね。

人生やキャリアの選択で「絶対にこれがベストだ」と確信できることって、実はほとんどないように思います。だからこそ、もし何か気になることや、「これがベターかな」と思えることがあれば、ちょっと試してみるのもいいんのではないでしょうか。

でも、身体を壊すほど無理をすべきではありません。私も経験がありますが、たいていの失敗は後で取り返しがつくけれど、健康だけは一度崩すと戻すのが本当に大変ですから。

頑張るときはしっかり頑張りつつも、ときには立ち止まって休んだり、自分が歩いてきた道をゆっくりと振り返ったりする時間を持つこと。違和感があれば、その時に方向を修正したり、別の道を選んだりする。そうして、「これが自分らしい」「こんな生き方が心地いい」と感じるものを少しずつ大切に積み重ねていく。

そういう日々を過ごすうちに、自分自身が納得できる人生に近づけるだけでなく、自然と周囲の人とも調和し、穏やかに響き合えるようになるのではないかと思います。──私自身もまだまだその道の途中で、常に模索しています笑。

三代祐子さんと仲間たち

三代祐子さんのご家族

2020年 コロナ禍

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