『仕事のワクワクを探す旅』#005
日月 美輪さん|日本画家。「絵を描きたい」というその想いが、辛いことも忘れさせてくれた
「新しいことを始める」って、不安もあるし、怖い。でも、見切りでも何でもいいから踏み切っちゃえ派なんです、私。
艶やかで、繊細で、そして大胆──。
観る人の「心を揺さぶる」日本画を描き続けている、日月 美輪さん。
巧みに描写された四季折々の花々や自然の移ろいから伝わる、世の中の美しさと生命の息吹。そして同時に、私たちの心の奥底にある「何か」が、日月さんの絵を感じ、共鳴します。
美大を卒業した後は、アルバイトで生計を立てながら、創作活動を続ける日々。
生活は苦しく、一時は口座の残高が1,000円を切ったことも。それでも画家でいることを諦めずに、個展やグループ展に積極的に参加したといいます。
一体、どのような道のりを経て、彼女は「好き」を仕事にするという夢を実現させたのでしょうか?
常識にとらわれない日月さん独自の視点で、幼少期の日本文化との出会いから現在の画家としての活躍、そして「好きを仕事にする」ということについて、語っていただきます。
目次
1)「日本画家になろう」と決めた経緯
私自身の、「描きたいもの」ってなんだろう?
──はじめに、画家になろうという経緯について、教えていただけますか?
子どもの頃から絵を描くのが大好きで、小中学生の頃は、どの学校にもいるような、「絵が人よりちょっと上手くて、文化祭とかの場で活躍する子」でした笑。
小学生の時はよく漫画を描いていたりしたんですが、中学に入ってから「私は『絵でストーリーを創る』じゃなくて、『物語が内包される絵』を描きたいんだ」っていうのに気づいて。それからずっと、思うままに絵を描き続けていました。
高校卒業後は、美大に入学。油画科に進みました。
2年生になると、周りの人たちが就職について考え始めるようになって、私の友だちでは、「デザイン系の会社に入りたい」という子が多かったんですね。それで私も、デザインの仕事に進むべきかを考えるようになりました。
その頃は、自分の描く絵についても悩んでいました。「これだ」と思えるような、自分の軸になるような方向性が見いだせずにいたんです。
当時私が好きだったのは、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロやラファエロといったイタリア・ルネサンス期の、調和の取れた美しさと明るさを感じられる絵画だったのですが、同じような絵画を描いていくことにしっくりこなかったんですね。
それで、「とにかく沢山の画家の作品や技法を知ろう」と、毎日校内の図書館に通っていました。
シーレ『死と乙女』との出会い
あるとき、たまたま手に取った本のなかで、エゴン・シーレの『死と乙女』という作品が目に入って、その瞬間に「わああああ!!」ってなったんです笑。
Tips1 シーレ『死と乙女』
画像引用元:Wikipedia「エゴン・シーレ 死と乙女」
エゴン・シーレ(1890-1918)の『死と乙女』(1915年)は、彼自身と恋人ヴァリ・ノイツィルとの別れを描いた作品です。
荒涼とした背景で抱き合う男女からは、無情な運命、死を前にした人の苦悩、そして二人が愛しあう想いの強さが感じられます。
──シーレの『死と乙女』に、インスピレーションを受けたということですか?
はい。当時はシーレのことを詳しくは知らず、「クリムト派の一人」くらいの印象しか持っていませんでした。
『死と乙女』を観たときに、──なんていうんでしょう、殴られたような衝撃というか、すごく心が震えたんです。「この、えもいわれぬような感情はなんやろ?」みたいな笑。
私がこれまでよく目にしてきた絵画は、滑らかさのある、写実的で美しい絵が多かったんですね。一方で、『死と乙女』は全体的に暗いし、ぱっと見て美しい感じじゃない笑。ですが、そこには心を震わせる強烈な何かがある。
そして改めて、「絵ってすごいな」って笑。
この時のシーレの『死と乙女』との出会いがあったから、私はデザインの仕事ではなく、「画家」を目指すことを決められたんだと思います。
油画から日本画へ
──すばらしい出会いですね。その後は、どういった経緯で油絵から日本画に転換していったのですか?
油画の先生は、これまでの私の作品に対して「いいと思うよ」「自分のやりたいようにやってみなさい」と言ってくれていました。
ただ、それ以外のことが返ってこなかったんですね。「褒めて伸ばす」教育方針だったと思うのですが、私はというと、絵についてもっと議論したかったし、ダメなところも言ってほしかったので、それが結構フラストレーションだったんです。
画家になるためには、「筆と絵の具を使って描くこと」を、もっともっと学ぶ必要がありました。そして、当時の油画科では、きっと十分にできないだろうと。
「じゃあ、油画科以外で、筆と絵の具を使って描ける学科はどこ?」と考えたときに、私の学校では「日本画科」があったんです。それで学校にお願いして、日本画科に転籍することになりました。
──油画と日本画では、描き方も大きく変わると思うのですが、その点は苦労されませんでしたか?
Tips2 日本画の画材
日本画は、岩絵具(天然の鉱石や岩石を粉砕して作られる顔料)や墨、胡粉(貝殻の粉)などが使用され、これらを膠(にかわ:顔料を接着するための媒材)で溶いて描きます。和紙や絹に描き、乾燥後は再加工が難しいため、計画的な制作が求められます。
※上の写真は、日月さんのアトリエ画材風景です。
大変でした笑。日本画科に移ったのは3年生のときで、基礎の授業は2年生まででもう終わっていましたから。
描き方も画材もガラッと変わるので、もう分からないことだらけです。先生にも訊くんですが、「やったらわかるから、とりあえずやれ」しか言ってくれなくて笑。
日本画の先生は結構厳しくて、描いたものに関してはしっかりアドバイスをしてくれるのですが、基本的には「まず自分でやれ」という教育方針でした。──私はその方が合っていたんですけど笑、はじめのうちはとても苦労しました。
それでどうしたかというと、とにかく技法をたくさん学ばないとと、またせっせと図書館通いです笑。
それから、大学の購買部の日本画の絵の具コーナーのところにも入り浸りました。そこにいれば、他の日本画科の生徒がやってくるから笑。
「すみません、ちょっといいですか?」って訊いてみて、答えてくれそうだったら「この絵の具とこの絵の具、一緒に見えるんですけど、値段が全然違うんですなんでですか?」といったような質問をして笑。
そうしていくうちに段々と友だちもできて、色々教えてもらったり工房に遊びに行かせてもらったりして、私も日本画について深く知るようになっていきました。
──すごい行動力と、適応力ですね笑
実は高校の頃、美術の先生から「お前の描き方、日本画やで」ってずっと言われていたんですよ笑。
日本画科に移る際、その時の言葉を思い出して「自分は日本画の方が向いているかもしれない」と考えられたんだと思います。
あと、私は小さい頃から和物の文化を親しんでいたんですね。
4歳の頃に茶道、それから小学生の頃には華道も始めて。お能や狂言を観に行くのも好きでした。それなのに、絵画に関してはこれまでずっと洋画だったという笑。
だからこそだと思うのですが、油画から日本画への転向はそれほど悩むことなく、決断できました。
2)仕事の選択肢は「画家」以外になかった。
気付いたときに、銀行口座には1,100円のお金しか残っていなかった
──美大卒業後は、すぐに画家として活動されたのですか?
はい。ただ、母は美術の教師にさせたかったみたいで笑、一応教員免許は取ったんですね。生徒に教えながらでも、自分の絵は描けるだろうと。
実際に教育実習も経験したのですが、「ああ、これは私には無理やな」と笑。やっぱり「教える」じゃなくて、「自分が描く」をしたかったんですね。生徒たちに教えているうちに、どんどん「描きたい」フラストレーションが溜まっていって笑。
だから、「絵を描ける状態を最優先しよう」と。もちろんお金は稼がないといけませんでしたので、美大卒業後はアルバイトをしながら、創作活動を続けました。
──アルバイトは、何をやられたんですか?
アルバイトは、当時は京都に住んでいましたので、祇園の料亭の仲居さんをしていました。着物を着るのが好きでしたし、あと時給もちょっと高かったので笑。
当時住んでいたところの家賃は4.4万円でしたので、光熱費を入れると5万円くらいですかね。それと食費、あと奨学金の返済も。それらを「最低限稼がないといけないお金」としてアルバイトで稼いで、帰ってきたら絵を描いて──というような生活をしていました。
美大を卒業してしばらくの間は、ほとんどアルバイトの収入に頼っていました。
絵の収入は、グループ展や個展で描いた絵が売れたり、展覧会で入賞したときに入ってきます。ですが、はじめのうちはなかなか売れませんでした。
それに、画材を揃えるのにもお金はかかりますし、展覧会の際は作品の送料や交通費もあって、出ていくお金も大きかったです。
美大を卒業して1年目の2015年の頃なんか、「口座のお金が、1,100円しか残ってない!」ということもありました笑。
──1,100円!その状況は、どうやって切り抜けたんですか?
運が良かったのですが、公募展に出していた作品が入賞して、数日後には賞金が振り込まれたんです。
ですが、その翌年の2016年に、残高が240円までになってしまいました笑。
──笑 まさにギリギリの生活だったのですね。
はい笑。240円はさすがに、「これはいよいよやばい!」と思っていたんですけど、いいタイミングで「絵を描いてくれませんか」という依頼をいただけたんです。
しかもお客様の都合で先払いにしたいとのことで、なんとか首が繋がりました笑。
そして、更に翌年の2017年、(またやばいかも…)と思って確認した通帳には、残高160円と記されていました。最高記録です笑。
ただこの時も、展覧会に送っていた作品が売れたんです。口座にもすぐに振り込まれました。
総じて、「口座のお金がもうない!」という数々のピンチを救ってくれたのは、アルバイトの収入ではなく、絵の売上だったんです。──それで、「なんか、いける!」って思っちゃったんですね笑。
──つまり、そこで「画家一本でやっていこう」と?
はい。その時はまだ、アルバイトの収入と絵の売上がやっと半々くらいでした。
ただ、美大を卒業してからグループ展や個展に絵を出し続けて、1年経って、2年経って、少しずつ少しずつ、絵が売れていった時期でもありました。
毎回来てくれるお客さまも一人二人と増えていって、「展覧会に出しても、一枚も売れない」ということがなくなって、「最低限、これくらいは売れるだろう」というのが見えてきて。
それに、たとえまた残高が1,000円を切っても、「絵を描き続けていれば、きっとなんとかなる!」っていう思考回路になっていたんですね。──完全に見切り発車でしたけど笑。
「絵を描きたい」という気持ちが、辛いことを忘れさせてくれた
──この間は、どんなことに「辛さ」や「大変さ」を感じていましたか?
料亭で仲居のアルバイトをしている時間に、絵を描けないことが一番辛かったですね笑。
それから、学生の頃から仲の良かった地元の友だちと、社会人になってからは一緒に遊びづらくなることもありました。
その子たちは銀行員や医療系の仕事をしていて、お給料も恐らくよかったんだと思うのですが、ふとお店に入ったときのお金の使い方が、私と全然違うんですね。
「普通に働いていたら、こういう風にお金を使えるんだな」ということを、友だち付き合いの中で目の当たりにするのは、結構辛かったです。
だけど、「絵を描きたい」という気持ちはやっぱりすごく強くて、そしてそれができていたから、正直それらの辛さをそこまで深刻に考えることはありませんでした。
3)「自分が止まっている」ときに、ラッキーはやってこない
「日本画の描き方を、めちゃくちゃ分かりやすく解説する」動画を作ろう
──画家としての活動一本に絞ってから、お仕事はどうやって増やしていったのですか?
展覧会への出展は続けつつ、2017年くらいから、YouTubeで作品のメイキング動画をアップしていきました。
Tips3 YouTube「日月 美輪の日本画チャンネル」
チャンネル:@hidukimiwa
日月さんが運営する、日本画の描き方(技法解説)や絵画作品メイキングを紹介するYouTubeチャンネルです。
技法解説では、日本画を始めたい初心者向けに、必要な画材や道具について優しく解説。絵画作品メイキングでは、一枚の和紙から鮮やかな色彩の絵画が生まれるまでの流れを、心地よいBGMを聴きながら鑑賞できます。
始めた当初は、単純に観てくれる人がいることが嬉しかったというか笑。「再生回数が100になった」「1年間で1,000回まで増えた」というような、小さな喜びを味わっていたのですが、次第に視聴者から質問をいただくようになって。
「これって、和紙に描いてるんですか?」「どんな絵の具を使ってるんですか?」「この白いのは何ですか?」といった質問に一つひとつコメントで返していくうちに、「そうか、日本画について色々知らないことがあって、『知りたい』と思っている人がいっぱいいるんやな」って気づいたんです。
Googleの検索ワードでも調べたりしたんですが、「日本画」のワードでもっとも多く検索されているのが「日本画 描き方」だったんです。
振り返ってみれば、私自身も日本画を始めた頃は分からないこと尽くしでしたし笑。
それだったらと、YouTubeに「日本画講座」というコーナーを立ち上げて、日本画の描き方を教えるコンテンツを上げていきました。
──すごい笑。マーケティング・プランナーの思考ですね。
日本画って、几帳面な人が向いているというか、面倒なことも多いんです。湿度とか、温度とか、比率とか、結構化学っぽいことも考えながらやりますので笑。
私も日本画を始めたときにすごく苦労したんで、それだったら「それをめちゃくちゃわかりやすく解説する動画を作ろう」って笑。
──視聴者の反応は、どうでしたか?
読みが当たりました笑。チャンネルの登録数が一気に伸び出したんです。
それから、展覧会にも「YouTubeを観て、来ました」とお越しいただき、そこで作品を購入していただく方も現れるようになりました。
YouTube動画「日本画でクラウド描いてみた」の反響
──2020年に公開された「日本画でクラウド描いてみた」の動画では、多くの方から反響がありましたね。動画ができた経緯についても教えていただけますか?
Tips4 YouTube動画「日本画でクラウド描いてみた」
2020年に公開されたメイキング動画。ゲーム「ファイナルファンタジーⅦ」(スクウェア・エニックス)主人公「クラウド」を、日月さんが日本画風にアレンジ。
日本画とゲームという異色の組み合わせが話題を呼び、再生回数70万回を超える(2024年現在)大ヒット動画となりました。
私は元々ゲーム好きでして笑、その頃「ファイナルファンタジーⅦ」のリメイク版が出ることになってて、とても楽しみにしてたんですね。
ただ、そのゲームをやるには「プレステ5」のゲーム機が必要で、それを私は持っていなかったんです。
当時プレステ5ってめちゃくちゃ人気で、お店でも抽選に当たらないと購入すらできないくらいで、それで友達にも協力してもらいながらいろんなお店で応募したんですけど、結果、全部落選しちゃったんです笑。
「このままじゃ、ゲームができへん…!!」と友達に嘆いていたら、「その気持ちを、絵にしてみたらどう?」って言われて、「あ、それいいな」ってなって笑。
さっそくその日のうちに描き上げて、メイキングの動画をアップしたら、予想以上にすごい沢山の方が観に来てくれたんですね。自分でもビックリしました笑。
あの動画を見てお仕事を依頼される方も出てきて、出版社や、ゲーム関連会社の方からイラスト制作のご依頼をいただけたり。
──クラウドの日本画で、仕事の幅が広がったんですね。
そうですね。YouTubeは作家活動の一環ではありましたが、多くの人に日本画を知ってほしいという想いもありましたから。
普段日本画にあまり触れることのなかった人にも届いたのは、とても良かったと思います。
「ファイナルファンタジーⅦ」のリメイク版は、未だプレイできていませんが笑。
今の環境に「安心」と「不満」が同居しているとき
──ここまでお話を伺っていて、日月さんは決断が早いというか、物事を進める際の「意志の強さ」のようなものを感じたのですが、ご自身ではどう思われますか?
そうですね。私はきっと「悩んでいるより行動するタイプ」なんだと思います。
生きていれば、必ず辛いことに遭遇しますよね。でも、そこでじっとしていてもラッキーはやってこない。
現状に不満があって、だけど何もしなければ状況は変わらない。それなら、見切り発車でもなんでもいいから、行動するようにしています。
他の人を見ていても、常に行動している人や、楽しそうになんかしている人って、応援したくなりますよね。そういうのって意外に大事だと思っています。
仕事に関して何か決断をするときは、「何が求められているのか」をしっかり考えるようにしています。たとえば「YouTubeで日本画のコンテンツを探す人は、『描き方』について知りたがっている」などですね。
求められていることがわかったら、あとはそれを自分の得意なことで返してあげる。私の場合は、日本画の知識であったり、実際に描いて見せることであったり。
それから、なにかをやっていて「あ、これ無理やな」と思うようなら、早めに軌道修正するようにしていますね笑。
──「本当はこんなことをしたい」という気持ちがあっても決断できずにいる人、一歩踏み出す勇気を持てない人に向けて、アドバイスをいただいてもいいですか?
決断ができない時って、今の環境に「安心」と「不満」が同居していて、踏み出すにしても良くなるか悪くなるかわからない怖さがありますよね。
結局、それを秤にかけて、自分がより落ち着くほうを取るんだと思いますが、それまでの期間が長くなるほど「今の環境でいる安心感」の方が重くなっていくと思うんです。動くことが、もっともっと怖くなっていく。
だから、変化を起こすなら、1日でも早い方がいいのではないでしょうか。
それに、無理なことをやり続けるのは、やっぱり疲れますよね笑。
今の環境でいることなにかしらの難しさを感じるんだったら、なるべく早く行動を起こしていく。その際の行動は、小さなことでいいと思うんです。
行きつけの店を変えるであったり、朝起きたときに日の光を浴びるであったり。それだけで、気持ちが変わることは多いですよね。
そうした「ちょっとずつの変化」を積み上げてくことも、私は大事だと思います。
人の縁もそうですし、人生のきっかけがどこにあるかなんて、わからないものです。
でも、止まっていてもその何かはやってきません。
「もっとこうしたい」「こういう生き方がしたい」と思ったら、自分のペースで良いと思うので、「きっと、これが好きだ」と思えるものから、小さな行動を少しずつ重ねていく。
そして、そこで育まれる「何か」を、注意深く見つけていくといいと思います。
「日月美輪 日本画展」のお知らせ
11/2~11/10 @東京・下北沢
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日時 11月2日(土) – 10日(日)
12:00 – 19:00
※5日(火)は休廊/最終日17:00まで開催 ギャラリーHANA下北沢 住所 〒155-0031 東京都世田谷区北沢3丁目26−2