『仕事のワクワクを探す旅』#008

竹嶋 信洋さん|放課後等デイサービスを立ち上げて14年。気付いたら、沢山の施設と仲間、そして笑顔があった。

竹嶋さん インタビュー
 

「誰かが笑ってる」のが好きなんですよね。
単純に、人が笑っているっていうこと。

千葉県で福祉事業を運営する株式会社ベストサポートの代表取締役、竹嶋信洋さん。

福祉の世界に興味を持ったのは、「人が笑っているのを見るのが好き」というシンプルな想い。起業当初は資金繰りに苦労し、その後は組織運営にも課題を抱えましたが、「そこにニーズがある限り」という信念のもと、持ち前の明るさと行動力で乗り越えてきました。

利用者さんとその家族の困りごとに寄り添い、常に感謝の気持ちを忘れずに、事業を拡大してきた竹嶋さんの仕事観、人生観に迫ります。

目次

Profile

竹嶋 信洋

職業:福祉事業運営(放課後等デイサービス等)
住所:千葉県
Web/SNS:株式会社ベストサポート  

1)福祉の仕事は、自分にとって「天職」だった。

福祉士のイメージ

──はじめに、福祉の仕事に興味を持ったきっかけについて教えていただけますか?

福祉に興味を持ったのは、母親の影響ですね。
母は、民生委員として地域のお年寄りの見守りや宅食ボランティアなどの生活支援をしていました。

ある時、風邪を引いた母から「ノブ、ちょっと代わりにお弁当を届けに行ってきて」と言われました。「えーー、やだよめんどくさい」って返したら、母が「1,000円あげるから」と。──「じゃあ行くか」と笑。

そのとき向かったのが一人暮らしのおばあちゃんの家で、「よく来たねぇ」と歓迎してくれて、逆にこっちがジュースやらポテトチップスやらご馳走になったんですね。

それがきっと僕の福祉活動の原体験というか、お金をもらってジュースも飲ませてもらって笑、そしてなにより、おばあちゃんの話が面白くて、楽しかった。「なんかこういう世界っていいな」って。それ以来は時々母の手伝いをするようになって──というのが、福祉に興味を持ったきっかけです。

ただ、福祉の専門学科のある大学に進もうとしたときに、父親から「福祉で飯が食えるのか」と反対されたんです。
「いやいや、福祉だって仕事があるよ」って反論したら、「大学は誰のお金で行くんだ?」って言われて苦笑。

それで福祉とは関係ない大学に入ったんだけど、それでもやっぱり福祉の仕事がずっと気になってたんですよね。結局、大学3年のときにみんなが就職活動する中で、「やっぱり福祉に行きたいです」って父親にお願いして、福祉の専門学校に行く選択をしました。

そこで2年間勉強して、卒業後は高齢者施設に就職する予定だったのですが、学校の先生から「竹島はきっと、高齢者福祉よりも障がい者福祉の方が向いてるぞ」って言われて。
障がい者福祉のことあまりよく分かっていなかったんだけど、まあ先生が言うなら、「そうか」と笑。

──素直ですね笑。

わりと、大人の言うことをスッと受け入れちゃうところがあったんですよね笑。それで、障がい者福祉の会社に就職しようと、幕張メッセで福祉専門の就職フェアが開催されてたんで行ってみたんですね。

そこで一カ所、人が凄く集まっているブースがあって、もう長蛇の列。で、なんとなく「ここがきっといいんだろうな」ってその列に並んで笑。そしたら、その会社に就職が決まりました。

──決断も早い笑。そうやって迷いなく決断していけたのは、「福祉への強い想い」があったからこそと思うのですが、その想いの源泉は何だったのでしょうか?

なんだろう…?笑
一番はやっぱり、母親が民生委員をやっていて、ボランティアの話もいっぱい来ていて、そこで何度か手伝って──っていうのがあったからだと思うんだけど、手伝う度に、おじいちゃんやおばあちゃん喜んでくれるんですよね。そういうのが楽しかったんでしょうね。

──それは、「自分の存在価値を感じられる」といった感覚でしょうか?

うーん、自分の存在価値…なのかな?笑

それよりは、「誰かが笑ってる」のが好きなんですよね。「いいことしてるでしょ」って認められたいとか、感謝されたいとかじゃなくて、単純に、人が笑っているっていうこと。逆に、人が揉めてるのを見るのは好きじゃない笑。そういうのはすごい嫌な気持ちになっちゃう。

だから、「人が笑っている」っていうことが、僕にとってはとても大事なんだと思います。

初めて宅食ボランティアに行ったときに、おばあちゃんがワーッて喜んでくれたその笑顔が、理由なしになんかすごい良かった、うん笑。多分それは、承認欲求とかとはまた別の感覚だと思うんですよね。

人は、息をしていればいいんじゃない。

福祉士のイメージ

──専門学校を卒業して、実際に福祉の仕事を始めてみて、いかがでしたか?

一言で言うと、「楽しかった」笑。
何だろうな…?とにかく、楽しかったんです笑。本当に何の迷いもなかったですし。辞めたいなって思ったこともない。

今はもう違うけど、当時は永遠に仕事するっていう時代だったから笑。夜中12時まで残業とか普通だったし、その施設が好きだったのもありました。新人で一人遅くまで残ってて、先輩や施設長が帰ったあと、こっそり施設長の椅子に座って「これは、いつか俺の椅子だ」って笑。

翌年に後輩が入ってきてからは、「俺とお前、どっちがこの椅子に相応しいかな…?」って施設長の椅子を取り合ったりして笑。
もちろん、当時の施設長のこともすごく尊敬してたし、その施設で働くことも誇りに思っていました。なにせ、就活フェアで一番長い列を作っていた、人気の施設でしたから笑。

──「楽しかった」というのは、具体的にどういうところでそう感じたんですか?

とくに印象に残っているのは、入職して1年目にすぐクラスを受け持ったときのことです。
一人の職員が6~7人の利用者さんを担当するんですけど、5月に利用者さんの親御さんとの面談があったんですね。

僕はまだ働き始めて1ヵ月経ったくらいの時だったんで、「それは先輩の仕事だよね?」って思ってたら、先輩が「竹嶋、お前行ってこい」と笑。「いやいやいやいや、何を話すんすか?無理ですよ」って言ったんだけど、結局一人で面談対応をすることになって。

面談には利用者さんのお母さんが来て、以前は息子がどんなに元気で、どんなに活発だったかを、泣きながら話してくれました。
その息子さん──利用者さんは、重いてんかんの持病があって。発作を止めるために大量の服薬をしていて、その副作用で日中も殆ど動けずにいて、目の焦点も合っていないし、開いた口からはよだれが垂れ続けていました。

利用者さんは僕の1個上の年齢だったこともあって、きっとお母さんも話しているうちに元気だったころの彼と僕を重ねちゃったのもあったと思うんですよね。

てんかんって発作が続くと本当に命に関わるし、看護をする家族は夜も眠れないくらいになるから、「薬で症状を抑える」という選択は当然ともいえるのだけど、でも、何とか日常生活ができるぐらいの服薬量にできないかっていう話をして、面談が終わるときには2人でおいおい泣きながら笑、手を取り合い「減薬に向けて頑張りましょう!」って。

それから、ドクターと相談しながら減薬していって、そうするとやっぱり発作は増えていくんだけど、それでも彼が少しずつ自力で活動できるようになって、元気さが感じられるようになって、──次第に、にこやかに笑うようになっていって。

ある時、お母さんがこう言ってくれたんですよね。「人は、息をしていればいいんじゃない。生きるって、ただ息をしていることが生きるじゃなくて、心が動いてこそ生きてるんだ」って。

そうか、そうだよなって思ったし、そのためのお手伝いをできたことが本当に良かった。すごい良かったなって思ったし、そしてこの1年間だけでも、他の利用者さんからも同じような機会、経験をたくさんもらいました。

2)父親と「株式会社ベストサポート」を設立して。

Tips1 株式会社ベストサポート

株式会社ベストサポートHP

株式会社ベストサポートHP

竹嶋さんが2011年に創業した、放課後等デイサービス、児童発達支援、短期入所、生活介護、相談支援、訪問・居宅介護などの施設を運営する会社です。
「誰もがありのまま・そのままの自分で、人とつながり、支え合う社会をつくる」をビジョンに掲げ、現在7つの施設と135名の従業員で活動しています。

株式会社ベストサポート 公式HP:b-e-s-t.jp

──その後、ご自身で起業することになった経緯についても教えていただけますか?

福祉施設で働いて10年ほど経ったある日、父親から「お父さん、来年定年なんだけどさ、そしたら一緒に起業しないか?」って言われたんです。
──あんなに福祉の仕事を反対してたのに笑。

ただ、父親は鉄鋼メーカーの生産管理の仕事をしていて、業務内容はバリバリの理系でしたので、「一緒にできること、なくない?」って言ったら、「まあ、そうだよな」って笑。その時の話はそれで終わったんですが、そのすぐ後に、父親に肺がんが見つかって。

ステージも進んでいて、余命3ヵ月の宣告を受け、──思ったのは「自分はまだ何も親孝行できていない」ということでした。当時はまだ結婚もしていませんでしたからね。孫の顔はとうてい見せられないだろうと。

それで、今度は僕の方から父親に「一緒にやろうか」って切り出して。そしたら父親も「やるか」って。でも、どうやって一緒にやるかなんて二人ともわかっていなくて笑。

その後、幸運なことが2つ続いたんですね。

一つが、当時働いていた職場の施設長から、「サービス管理責任者」の認定資格を受講させてもらったこと。でも、起業することが決まってたから正直に話して別の人に受講してもらうようにお願いしたら、「竹島くんを諦めるつもりはないけれど、仮に辞めたとして、この研修を受けたことはあなたにとって大きなメリットになるはずだから、受けなさい」って言ってくれたんです。

だから、起業したときに困らなかったんですよね。事業所を持つ資格を保有できていたから。──本当に、当時の施設長には感謝してもしきれません。辞めるまで散々引き留められましたけど笑。

もう一つの幸運だったことは、父親の投薬治療がうまく行って、余命宣告よりも大分長生きしてくれたことです。

父親は、定年まで働いていた会社の子会社に依頼して、僕たちの新店舗の看板を作ってくれました。──その後、病状が急変して亡くなったから、父親がしたことといったらそれだけになっちゃったんですけどね。

──先ほどお店の案内をしてくれた際のあの看板は、お父様が作られたものだったんですね。

放課後等デイサービス バンブーアイランド

そうです。『バンブーアイランド』っていうのは、日本語にしたら「竹嶋」だから笑。
看板の費用は、6万5千円でした。父が大分値切ってくれたようです笑。

会社の口座に、2万円しかお金がない。

──その後、店舗運営は順調に進んだのですか?

いやいや、全然ですよもう苦笑。

最初に始めた事業は、「放課後等デイサービス(※Tips2)でした。まずは店舗が必要になりますから、テナントの契約をして、同時に職員さんの募集もして、翌月にサービスが開始されて、お金が入ってくるのは更にその翌月です。

最初の2ヵ月はお金が出ていく一方で、用意した資本金100万円は1ヵ月でなくなって、定期預金を解約して100万円を継ぎ足したけどの翌月には残金は3万円しか残ってなかった。「これはもうヤバい!」と思ったその3日後に銀行の融資がようやく下りて首の皮一枚で繋がった感じでしたね。

それで、3ヵ月目にようやく初月の売上が入ってお金の方はなんとか回りはじめて、するとね、今度は定員オーバーで店舗に入れなかった人たちの「待機者リスト」がいっぱいになってる。

当時、千葉市では障がい児の支援施設があんまりなくて、需要に供給が追い付いてなかったんですよね。だからもう早いタイミングで二店舗目も視野に入れて、どっかにいいテナントないかっていつも見張ってて笑。

Tips2 放課後等デイサービスとは

放課後等デイサービスは、支援を必要とする就学児童(小学生、中学生、高校生)で、障がいのある児童や発達に特性のある児童が放課後や長期休暇に利用できる福祉サービスです。
個別の支援計画に基づいて、自立支援と日常生活の充実のための活動などを行います。

そうやって、二店舗目、三店舗目って増やしていって、5年目に入ってから「職員ももっと増やした方がいいだろう」と思って一気に採用をかけた。そうしたら、職員間で内部分裂が発生しました苦笑。

──ええ!!どんなことがあったんですか??

これはもう、本当に思い出したくもないくらい辛い時期だったんですけど、当時9名の職員がいたのですが、新たに9名の職員を同時採用したんですね。
そこで、新旧の職員同士で対立が起きちゃったんです。

元々の9名の職員は当然僕が見ていたんですけど、まあ組織ガバナンスもなにも分からないままやってましたから笑。「当たり前のことが、相手にとっては当たり前じゃない」ことがたくさんあって、特に新しい職員の方で不満が大きかったんですね。
加えて僕は店舗の外での活動も増えてきていたので、留守にすることも多かった。留守中のリーダーも決めていたんですが、そんな即席でやってうまくいくわけもなくて。

職員同士で大声で喧嘩していたときもあったし、胸ぐらを掴み合うところまでいったこともありました。
そのうち、元々の職員があまりの雰囲気の悪さに事務所に来れなくなっちゃって、でも仕事はあるから休日に来て仕事するようになって。──もう、とにかく酷かった。

──それは大変な状況でしたね…。どうやって、収束していったのですか?

結局、新しい9名の職員の人は皆辞めることになったんです。

そこに至るまで、毎日のように一人ひとりと面談をして、どうしていきたいのか、何が不満なのかを訊いて、僕ができることとできないこと、そして譲れないこともきちんと話していって、そうしたら新しい9名の職員のうちのリーダー格の人が「辞めます」となって、すると他の8名もそれに追随するかのように退職していきました。

そうしてまた元の9名の職員の状態に戻ったのですが、組織はもうボロボロでしたし、利用者さんは増え続けているのに職員数は半減したしで、新規の登録をいったん止めさせてもらい、まずは組織の立て直しに専念しました。
組織コンサルにも入ってもらって、それが年間400万円。更に放課後等デイサービスでは18歳になった利用者さんは退所しますから、利用者さんの数はガクンと減って当然売上も下がって、その年の決算は1,500万円近くの赤字でした。

ある時、事務の職員さんから「銀行から連絡があって、会社の口座に2万円しかないから引き落としができないそうです」って言われて、「ああ、そうなんだ!じゃあ別の口座から持って来ないとだね。ちょっと待っててね」と言ったんだけど、別の口座なんてありませんでしたから笑。なんとかお金をかき集めて、その場をしのいで──。

そこで学んだことは、採用の仕組み含めて、ちゃんとした組織にしなくてはならないということ。そして、「竹島ワントップ」の状態はもう危険だということです笑。

それからは4、5年くらいかけて組織構築にすごい力を入れました。教育制度とか、評価制度、キャリア構築とか。
その後も施設は増えていって、職員がまた一気に増えることもあったんだけど、このときの教訓があったから、何とか保てた。「ああ、やっぱり組織構築って大事だったんだ」って笑。

今(2024年)は7つの施設があって、従業員数は135名。
そこまで大変なこともあったし多少の痛手もあったけど、何とか保てたのは、このときに組織をきちんと構築していったからだと思っています。

3)承認欲求のしがらみを、なくしていくこと。

Tips3 生活介護事業所「ITSUMO」

生活介護事業所「ITSUMO」

株式会社ベストサポートが運営する、知的にハンデのある18歳以上の方が利用できる生活介護サービスです。利用者は駄菓子屋の運営や地域の困りごとを解決する御用聞きなどの仕事にも取り組みます。
施設内には子どもたちが自由に遊べる本物のバスやキッズスペース、缶詰カフェなどがあり、どなたでもご利用可能です。

多機能型事業所生活介護ITSUMO HP:https://b-e-s-t.jp/itsumo.html

そこにニーズがある限り。

──施設を増やさずにじっくりと運営する道もあったと思うのですが、拡大を続けていったのはなにか理由があったのですか?

起業時から、ずっと大事にしていた考えがあったんです。──それは、「そこにニーズがある限り」ということ。とにかく、ニーズがあるんならやろう、と。

だから、たとえば周りの人を傷つけるようなことをしてしまう利用者さんがいて、その人の行き場所がなくなってしまったとき、その人のために施設を作れないかを考える。
たった1人のために作るんだけど、でもそういう潜在的なニーズは実はたくさんあって、話を訊いた人たちから「私も」「私も」「私も」という声が挙がって、その新しい施設もあっという間に定員がいっぱいになっちゃう。

そうやって、利用者さんやその家族の方々の困っていることにフォーカスしていると勝手に広がっていくんです。もう、広がらざるを得ない笑。──そこで「NO」って言ったら、その瞬間に自分たちの存在価値を失ってしまうんです。だって、「ニーズがあったらやろう」っていう法人なんだから。

きっと、これからも広がり続けるんでしょうね。もちろん、それが本当に良いことなのかはどこかでちゃんと議論をしなきゃいけないとは思いますが、今のところは職員からも異論はなく、皆同じ気持ちで臨んでいてくれていると思っています。

「生きている」こと自体が、すごいこと。

竹嶋さん

──ここまでのお話を訊いていて、ずっと疑問に感じていたことがあります。どうして、そこまでひたむきにやれるのですか?

自分がひたむきかはわからないけど笑、多分感謝の気持ちがそれ以上にたくさんあって、利用者さん達もそうだし、サービス管理責任者の認定資格を受けさせてくれた施設長、組織が滅茶苦茶になって1,500万円近くの赤字を出した時も残ってくれた職員さん、そして今の職員さん達。

「そこにニーズがある限り」を実現するには、もう人の協力なしには成り立たないですからね。そこはやっぱり感謝の気持ちが大きいし、そう感じられること自体が純粋に嬉しい。だから、その気持ちを返していきたいし、そうやって働くこと自体もなんか楽しいなって思いますね。

実は、もうかれこれ10年近く自分の給料は変わってなくて笑、事業の規模は大きくなって売上も上がってはいるんだけど。世間一般のイメージにある「社長さん」のような野心だったり「人から認められたい」みたいな欲求は、僕にはあまりないかもしれないですね。

──少し前にも「承認欲求ではない」とお話していましたね。
一方で、多くの人は日常的に承認欲求を感じていて、その感情ゆえに苦しくなったり辛い気持ちになることも多いといいます。竹嶋さんのようにしがらみから自由でいれるコツというか、独自の考え方などがあったら教えてください。

「承認欲求のしがらみがない」というのは、それは間違いなく母親のおかげですね。

私の母は、私に対して幼少の頃からずっと「あんたはすごい」しか言ってこなかったんです笑。もういつも、「あんたはすごい」「こんないい子いない」って。

実際はそんなことないんですよ笑。小学生、中学生の成績もそんないい方ではなかったですし。親戚同士で集まったときに叔父や叔母から「学校の成績どうだ?」と聞かれると、父親からは「いやこいつは全然ダメだよ」って言われて、父親は頭良かったから笑。でも、そこですかさず母親が入り込んできて「そんなことない。むしろこの子は本当にすごい」って反論してくれました笑。

そうやってずっと「あんたはすごい」って言われ続けているうちに、自分でも「俺、どっかすごいのかな」って思ったりして笑。そんな育てられ方していたから、承認欲求は早いタイミングで満たされちゃったのでしょうね。

従兄に脳科学の研究をしている人がいて、その人がよく言っていたんだけど、「人は言葉を通してしか、世の中のことをイメージできない」って。
要は、自分がどんな人間かを認識する際も言葉は絶対必要で。裏を返すと、自分に対してどんな言葉をかけられるかで、自己が形成されていってしまうんですよね。

──もしかしたら、一番すごいのは竹嶋さんのお母さんかもしれませんね笑。

本当にそうかもしれない笑。
でもきっと、「すごい」というのはみんな一緒。みんながすごい。

これまで生きてきた中で色んな経験をして、それは確実にその人ならではのものであってやっぱりすごいことだし、それ以前に「生きていて、そして心が動いている」こと自体がすごい。

でもそれは言葉がなければ認識できないから、身近な人が「すごい」って言ってあげたり、ときに自分で自分に対して「すごい」って認めてあげることが、とても大事なんだと思います。

職員によく言っていることがあるんだけど、「毎日鏡見て、自分を1日1回褒めてあげる」。騙されたと思って、毎日鏡見て「私すごい」「私かわいい」とか言ってみてって。
「恥ずかしくてできない」っていう子もいるけど笑、続けていくうちに以前より活気が出てきたっていう職員もたくさんいますよ。

株式会社ベストサポートの仲間たち

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