『仕事のワクワクを探す旅』インタビュー#013

よっちゃん|琴奏者。「誰かの喜びが、自分の栄養になる」

よっちゃん インタビュー
 

「部員が0人」の部活を探していて、そこで見つけたのが琴部だった。

震災を経て、お琴という伝統楽器に出会い、音楽を通じて「誰かのために表現する」ことを大切にするようになった琴奏者・よっちゃん。

人見知りで、人前に立つことが苦手だった幼少期から、自分らしく生きることを見つけ、現在プロとして活動するまでの道のりは、どのようなものだったのでしょうか。

「誰かが喜ぶことが、自分自身の栄養になる」と語るよっちゃんに、これまでの人生のターニングポイント、そして日常の中で幸せを見つけるヒントについてお聞きしました。

目次

Profile

よっちゃん

職業:ミュージシャン・箏(琴)演奏者
  

1)中学校の卒業式当日に起きた、東日本大震災

小学校の下駄箱

「表現すること」が好きだったけど、「皆の前で喋ること」は大の苦手だった。

──幼少期や小学校の頃は、どんな子どもだったんですか?

子どもの頃は、本当に人見知りが激しかったんです笑。人前で話すのが苦手で、クラスでの意見発表や学習発表会などで発言する機会があっても、おそらく一度も手を挙げたことがありませんでした。

小学校時代は「静かな子」のグループに属していて、僕以外は全員女の子という5~6人の小さなグループでした。一緒に絵を描いたりして、静かに過ごしていましたね。

──「これをしている時が特に楽しかった、夢中になれた」というのはありましたか?

4歳の時から絵とピアノの教室に通っていて、それから書道も習いはじめて、「表現すること」自体はすごく好きでした。

その反面、休み時間や放課後に「みんなでサッカーやバスケをしよう」みたいなのには1回も参加したことがありませんでした。
男の子たちが集まってこれからサッカーをしようとなって、そうするとチーム分けをしますよね。それでまず、強い子2人がリーダーになって、周りの子たちを見て「この子はこっちのチーム」みたいに振り分けていく。そういうのが本当に嫌だった笑。

学校の授業も「発表しなくちゃいけない」雰囲気があって、それができない子を良しとしない教育方針もあって。今では、そういうのってあまり見られなくなったみたいですけど。良くも悪くも「皆が平等に」という時代ですからね。

あるとき、そういう環境にいること自体がとても辛くなって、学校に行けなくなったことがあって。別に学校が嫌いなわけでもなく、いじめられていたわけでもない。ただ、その場所にいること自体が耐えられなくなったんです。

幸運だったのが、母がそんな僕の考え方というか、想いを尊重してくれたこと。
もちろん休んだ期間は授業に置いていかれないように勉強するよう言われましたが、それ以外では僕の「楽しめること、関心を持てること」に付き合ってくれました。買い物に行ったり、ときにゲームセンターに付き合ってくれたり、家で一緒に映画を観たりとか。

そういう時期があったからこそ、僕は僕自身に対して、「このままでいいんだ」って思えたんですね。自分でやってみたいことを、周りからの評価を気にせずに素直に取り組める。現在の「型に縛られずにいられる自分」は、きっとこの時期に形成されたんだろうと思っています。

──中学校では吹奏楽部に入ったと伺っています。どんな活動をされていましたか?

はい。吹奏楽部でパーカッション、打楽器をやってました。
中学校生活において、部活動は自分の居場所でもありました。音楽をやってる時が一番楽しかったです。楽器だったら、喋らなくても表現ができますしね笑。

琴部に入った理由は、その部が「部員0人」だったから。

──お琴を始めた経緯についても、お話しいただけますか?

お琴は、実はやりたくて始めたわけでは全くなくて。僕にとってはある意味「逃げ場」だったというか。

2011年3月11日(金曜日)、東日本大震災が発生しました。
僕はちょうど中学校の卒業式の日で、卒業式が昼に終わり、その後14時46分に大きな揺れが襲ってきました。

僕は福島県の双葉町という、人口5,000人くらいの町に住んでいました。小さな町だけど、森も川も海もあって、とても綺麗なところだったんです。
それまでは、「このままここで、ずっと暮らしていくんだろうな」って思っていたんですが、震災よって、すべてが変わってしまいました。

Tips1 福島県双葉町

福島県双葉町の説明図

画像引用元:一般社団法人 ふたばプロジェクト「双葉町について」

双葉町は、福島県の東部、太平洋に面した自然豊かな町です。背後には阿武隈山系の山々が広がり、風光明媚な環境に恵まれています。
町では、盆踊りや130年の歴史を誇るダルマ市など、古くからの伝統文化が大切に受け継がれてきました。かつては農業を中心に栄えていましたが、後に原子力発電所の誘致をきっかけに関連企業が進出し、町は大きく発展していきました。

しかし、2011年3月11日、東日本大震災が発生。双葉町は震度6強の激しい揺れと津波に襲われ、福島第一原発の事故により、町全体が避難を強いられる事態となりました。
その後、2020年3月には一部地域で避難指示が解除され、さらに2022年8月には「特定復興再生拠点区域」の避難指示も解除され、ようやく住民の帰還と暮らしの再建が始まっています。

僕たち家族は避難を余儀なくされ、親戚の家を転々として、気づけば4月になり、高校の入学時期が迫っていました。
僕には3つ上の姉がいて、その姉が東京の板橋区にある大学に進学予定だったんですね。姉の入学手続きのため、父の運転する車でその大学へ向かったとき、たまたま車の窓から高校の校舎が見えたんです。そのとき、「ああ、ここにも高校があるんだな」って。

地元で通学圏内にあった高校は数えるほどしかありませんでしたし、入学を決めていた高校も震災で校舎が壊れていました。だから、震災の被害を受けずに無事でいる高校を見て、少しほっとした気持ちになったんだと思います。

当時は多くの高校で震災避難者を対象に特例措置による編入学を受け入れていて、その高校もその一つでした。

──その日の出来事をきっかけに、編入先の高校を決められたのですね。その後、高校生活はいかがでしたか?

編入は無事できたのですが、僕自身はこれまで以上に周囲と馴染めずにいました。

その理由は、僕が「被災者」だったということ。
毎日のように震災による放射能の影響についてのニュースがやっていて、僕自身がそのことをすごく気にしてしまっていたんです。被災者ということで、周りから避けられたりするのが怖かったから。

新しい高校では、「必ず部活に入ること」というルールがありました。でも、きっと中学の吹奏楽部のように部員たちと仲良く過ごすことはできないだろう、それならいっそ、「部員が0人」の部活を探そうと笑。
そこで見つけたのが、琴部だったんです。琴を演奏したことは、これまで一度もありませんでした。

高校時代のよっちゃん

仲間と、一緒に音楽を作っていく楽しみ。

──「逃げ場」として琴部に入ったとのことですが、琴を本格的に始めようと思ったきっかけは何かあったのでしょうか?

1年生の9月に文化祭があり、そのときに初めて人前で琴を演奏したんですね。
その時には部員は僕を含めて3人いました。僕と同じ時期に部活に入った女の子1人と、6月頃に勧誘して入ってくれたクラスの男の子1人。──全校生徒1,000人くらいの高校で、けっこうたくさんの生徒の前で演奏することになってましたので、しっかり練習を重ねました。

高校時代のよっちゃんと部活仲間

結果は、ボロボロでした。
はたから見たらそれなりに聴こえたのかもしれないけど、とにかく全然ダメだった笑。そしてそれが、すごく悔しかった。それで、もっと演奏を上手になりたいなって思ったんです。

そもそも、あの年に僕たち3人が琴部に入らなければ、部は廃部になるところだったそうです。かつての琴部は全国大会の常連で、全盛期には30〜40人もの部員がいたといいます。
僕が入部したとき、部室には当時の賑わいを写した写真が飾られ、その隅には、長い間誰にも弾かれずに放置されていた古びたお琴が置いてありました。

振り返ってみると、そのお琴の姿が当時の自分の心情と重なっていた気がします。だからこそ、文化祭でうまくいかなかったときに、「このままでは嫌だ、何とかしたい」という気持ちが一層強く湧いたのだと思います。

次の年には新たに2人が入部し、僕が3年生になった頃にはさらに7人が加わって、部員は合計12人になりました。

部員が増えると、自然に「他の人の音をよく聴いて、それに合わせて演奏する」必要が出てきます。それまでの3人だった頃は、1人ひとりが別のパートを担当していて、自分のことに集中するだけでしたが、次第に「もっとこういう風に弾いてみよう」といった話し合いが増えていきました。

高校時代のよっちゃんと部活仲間

──その後の琴部の活動について教えてください。

中学校の吹奏楽部とは違い、琴部には先輩がいませんでした。だから、演奏の相談だけでなく、部活動そのものの仕組みづくりも僕たち自身で考えていく必要がありました。後輩たちとも「こう演奏してみたらどうだろう?」と相談しながら進めていくうちに、自然と「みんなで音楽を作り上げる」という感覚が生まれていきました。

3年生の時には県の琴コンクールに参加し、そこで銀賞をいただきました。

最初は「ひとりになれる場所」を探して入った部活だったのに笑。気づけばたくさんの仲間に囲まれて──大変なこともありましたが、本当に楽しかったですね。

2)プロの琴奏者になるまでの歩み

よっちゃんの路上演奏

はじめて路上演奏したときは、誰も見向きをしてくれなかった。

──高校卒業後、人前でお琴を演奏するようになった経緯について教えてください。

大学1年生の終わり頃に、東京都が認定する「ヘブンアーティスト」という資格を取得しました。この資格をきっかけに、路上でお琴の演奏活動を始めるようになりました。

Tips2 「ヘブンアーティスト」とは

ヘブンズアーティストのイメージ(画像引用元:東京都「ヘブンアーティストTOKYO」)

画像引用元: 東京都「ヘブンアーティストTOKYO」

ヘブンアーティストとは、東京都が審査を通じて認定したアーティストに対し、都内の指定された場所でパフォーマンスを行える機会を提供する制度です。

合格率は10~20%ほどと非常に狭き門で、認定されたアーティストは上野公園やお台場などで日常的に活動しています。
都民が身近な場所で芸術を楽しめるようにするほか、被災地支援の活動も積極的に行い、文化振興や社会貢献にも大きく役立っています。

──実際に路上演奏してみて、いかがでしたか?

あまりにも聴いてもらえないことに、びっくりしました笑。
立ち止まってくれる人は、1時間にせいぜい1人か2人。ほとんどの人が素通りでした。

それで、立ち止まって聴いてもらえるにはどうしたらいいか、考えたんですね。
たとえば、衣装を作ってみる。立って弾ける台を用意する。これらを、全部自分で用意しました。衣装は自分でミシンを使って作り、お琴の演奏台も、工学部で学んでいた知識を活かして、図面を描き、素材を購入し、レーザー加工機で自作して笑。

yocchanの衣装デザイン

でも、一番効果があったのは、「しゃべりながら弾くこと」。
ちょっと立ち止まってくれた人に、『今日はどこに行ったんですか?』とか、『聴きたい曲あります?』と、コミュニケーションを取るようにしたところ、段々と演奏を聴いてくれる人が増えていきました。

最初の頃は、無言で何も喋らずにずっと弾いてたり、ちょっと喋ったとしても曲紹介をするくらい。『次は~〇〇を演奏します』って。誰も立ち止まってないのに笑。でも、そういう失敗というか、苦戦もしたから、お客さまとのコミュニケーションというか、関係性を築いていくことの大切さを知ったんだと思います。

よっちゃん|海外ストリートライブ風景

──トライアンドエラーを繰り返して、改善を重ねていったんですね。その後、プロを目指すことになった経緯を教えてください。

大学3年生の時、熊本で開催された和楽器の全国コンクールで2位に入賞しました。琴では1位だったんですけど、全体の2位。
それが悔しくて、次の年にもう一度チャレンジして、そこで全国1位に。その時から、プロを目指しました。

オリジナル曲「レモンアカシア」が生まれた経緯。

──2021年にはオリジナル曲「レモンアカシア」を発表されましたが、作曲された経緯を教えてください。

大学4年の頃、エイベックスからメジャーデビューのお話をいただけて。それから本格的な演奏活動が始まるのですが、その直後コロナ禍が始まりました。

しばらくは公演も路上演奏も控えて、Youtubeで毎日生配信をして。コロナ禍が下火になって、ようやく開催できたコンサートで、これまで応援してくれたファンと方々にお会いできました。
その時の「出会えた歓び」の感情から、オリジナル曲を作ろうと思い到りました。

「レモンアカシア」は、中学時代の吹奏楽部の先輩を思い出しながら作りました。震災の時に津波で家族ごと亡くなってしまったのですが、彼は僕にとって、音楽を文字通り『楽しむ』ことを教えてくれた人でした。

──その先輩は、具体的にどんなふうに音楽の楽しさを教えてくれたんですか?

なんていうんだろう…。確かに言えることは、「真面目に練習しよう」というやり方ではなかったことですね。
顧問の先生がいない時は、『かくれんぼしよう』とか言いだすんです笑。校舎中を走り回って、先生に見られて怒られたこともありました。
楽器のリズムを教えるときも、「ターン、ターン、タンタンターン」ではなく、「キーノコ、キーノコ、キノキノコ!」みたいな変な当て字を使ったりして笑。

でも、そういう一つひとつの行動から、「まず仲良くなって、そして楽しもう」という想いが溢れていて。──とても、優しい人でした。

先輩と出会わなかったら、音楽は「まじめに練習するもの」という感覚のままだったと思います。

──素敵な先輩だったんですね。その想いが込められた「レモンアカシア」ですが、演奏して印象深かったエピソードはありますか?

震災から13年経った去年(2024年)の秋、故郷の双葉町で野外コンサートを行いました。これまでもずっと、「いつも応援していただいてるファンの方々に、いつか僕の生まれたふるさとを見せたい」と思っていて、それが実現したんですね。

そのコンサートの最後に「レモンアカシア」を演奏し、翌日には希望された方々と一緒に町を歩きました。

それまでは、「レモンアカシア」を演奏すると、当時のことを思い出して辛い気持ちになることがありました。でも、この野外コンサートの経験をきっかけに、前向きな気持ちで演奏できるようになったんです。

うまく言葉にするのは難しいのですが、僕にとってその先輩との思い出は、幸せな記憶である一方で、「失われてしまった」という気持ちも少なからずあって。
でも、その大切な記憶にファンの方々が寄り添い、共感してくれたことで、自分の中でずっと「過去にとじ込まれていた故郷の思い出」が再び開かれ、未来へとつながっていくような感覚を持つことができました。

3)誰かの力になれること

誰かの力になれることが、自分にとっての何よりの栄養。

よっちゃんの演奏シーン

──路上ライブでは「足を止めて聴いてくれた人とのコミュニケーション」を意識し、双葉町のコンサートでは「震災前の思い出をファンの方々と共有する」など、『想いを共にすること』を大切にされているのかなと感じました。

たしかに、そうかもしれません。
コンサートに来てくださった方々の中にも、さまざまな悩みを抱えたり、気持ちが沈んでいる方もいると思います。そんな中、「晴れやかな気持ちになりました」「楽しかったです」といった言葉をいただけると、それが僕自身を前に進ませてくれる力になっています。

昨年、ステージ4のがんで闘病中の方がコンサートに来てくださいました。その方は病室で僕の演奏動画を観てファンになり、「いつか会いに行きたい」との想いを胸に治療を頑張ってきたそうです。「あなたの演奏で、元気になれたんですよ」とおっしゃってくださったのですが、むしろ僕のほうが勇気と励ましをいただきました。

──とても素敵なお話ですね。一方で、よっちゃん自身が悩んだり気持ちが落ち込んだりしたときには、どんなふうに対処しているんですか?

僕が日頃から強く感じているのは、「誰かの力になれていることが、自分にとって何よりの栄養になる」ということです。

これは演奏に限ったことではなく、例えば公衆トイレの手洗い場が濡れていたらさっと拭いておくとか、ホテルや施設のスリッパが乱れていたら綺麗に並べておくとか──。次に来た人が「気持ちよく使えるな」と感じてもらえるようなことを、小さくやってみるんです。「自分がされたら嬉しいこと」を先回りして用意しておくような感覚ですね。

実際には、誰にも気づかれないことも多いですし、直接「ありがとう」と言われることはほとんどないと思います。でも、「次の人が喜んでくれるかな?」と想像することで、ちょっと嬉しい気持ちになるんですよね。「誰かのため」と思いながらも、自分も幸せになれるというか。

あとは、僕はディズニーランドやユニバーサルスタジオジャパンのようなテーマパークが大好きで、行く日程を決めただけでもすごくワクワクしてしまいます笑。

僕の場合、アトラクションに乗るのを楽しみにするというより、あの空間を歩きながら雰囲気を楽しむタイプで。ちょっとマニアックかもしれませんが、例えば「スピーカーがどこに隠れているか」を探すのが好きなんです。
よく工夫されているテーマパークだと、岩や植物、外灯のように巧妙に隠されていて、探さないと見つけられないんですよね。そういう細かな工夫にも、「お客さんに楽しんでもらいたい」という思いが込められているのを感じるんです。

こうした身近な「ワクワク」って意外とあちこちに散らばっていて、意識すればたくさん見つけられると思います。自分なりに楽しめることを探していけば、小さな行動ひとつで日常がちょっとずつ楽しくなるのではないでしょうか。

「相手が喜ぶ場面」を想像して、それを自ら作り出すこと。

よっちゃん リハシーン

──印象的だったのが、「誰かの力になれていることが、自分自身への栄養になる」というお話でしたが、もしこれを実践してみたいという人がいたら、どんなことから始めるのがいいでしょうか?

「きっと喜んでくれる」と思って行動しても、意外と感謝してもらえないことってありますよね。

コンサート会場で配線が乱れているのを綺麗に整えても、誰からも「ありがとう」と言われることはありません。でも、そもそも感謝されることを目的にするのではなく、「これをしたら、お客さんがより気持ちよく楽しめるかな」と、自分の中で想像しながら行動することが大事なんじゃないかと思っています。

さっきのトイレの水回りをさっと拭いておくことだったり、ホテルや施設でスリッパが乱れているのを整えておくことだったり──そういった小さなことって、誰にも気づかれないかもしれないけれど、「次の人が気持ちよく使えるかな」「この施設の印象が良くなるかな」と自分の中で想像するんです。もちろん僕は施設のスタッフじゃありませんが笑。

つまり、「誰かからの感謝」を直接待つよりも、「相手が喜ぶ場面」を想像して、それだけでも嬉しい気持ちになること。そのほうがずっと手軽に日常の中で幸せを感じやすくなるんだと思います。

もちろん幸せの形は人それぞれです。頑張って稼いだお金でショッピングを楽しむ人もいれば、大切な人と一緒に過ごす時間が何よりの幸せという人もいるでしょう。

僕自身にとっての幸せは、「誰かが喜んでくれること」と「誰かが自分を喜ばせようとしてくれている、その気持ちに気づけること」。その二つを日々感じられることが、一番の励みになっています。

もし今、「日常であまり幸せを感じられない」と悩んでいるなら、身近な人を喜ばせるための小さな行動をしてみたり、周囲の人が誰かを喜ばせようとしている小さな工夫を意識して見つけてみたりするのはどうでしょうか。
きっと、それだけで日常の景色が、少しずつ変わっていくと思います。

よっちゃん|海外ストリートライブ風景

よっちゃん:一休みシーン

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Isabelle DAVIDさん

Tres belle article qui représente bien la personnalité de notre génie du Koto, merci

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